銀行員時代⑤
当時「香港財閥グループ向け不動産融資を担当」と口にすると、相手の方の表情が微妙に崩れるのが判りました。
一つは、数年後に返還が予定される「中国リスク」、また雑然とした華僑街の、九龍城や数多の映画からくる「魔窟」のイメージによるものだったでしょう。当時、「中国リスク」については行内の議論はほぼ終結していて、取引続行の方針でした。また後者(「魔窟」)のイメージですが、九龍城が正に立退き・取壊しになる時期で、急速に先端都市化・観光地化が進んでいました。
もう一つは、「不動産融資」そのものです。後に明らかになるように、日本のバブルが崩壊し始めた時期に当たっており、まだ続けるのか?との感覚は、少なからぬ方々にあったと思います。しかし、当時の香港はどこまでも明るく、活力にあふれる魅力ある街でした。オフィスやマンション、インフラの急開発から、資金需要は常に大きく、大型融資案件が目白押しです。
当時の当地華僑財閥グループによる不動産開発は、一物件(一棟、ではなく「コンプレックス」と呼ばれる敷地内の全体)を保有する「シェルカンパニー」(受皿会社)を設立し、その株式をグループの中核会社が保有する形で行われました。金銭消費貸借(銀行融資)は英国流の契約により、この「シェルカンパニー」に対して実行され、開発物件全体に根抵当権を設定し、付随のキャッシュフロー等は譲渡担保にとり、通常はグループ中核会社が保証を差入れます。この、プロジェクトファイナンス(ノンリコース)的なスキームに「親会社」保証をつけるという、独特のハイブリッド構造が、貸し手にとっての大きな安心材料でした。
当時の香港大手財閥は、自己資金(現預金)が膨大にあり、実質無借金(借入を預金が超過)でしたが、平時こそ銀行との取引関係を維持するという、華僑特有のリスクヘッジ策から、基本は一物件一融資がスタンスでした。しかしキャッシュは常に前向きに回るため、期前(繰上)完済も少なくなく、日常観察の上で不安感というものは、ほぼありませんでした。昨今の香港の混乱を見るにつけ、誠に今昔の感があります。
→ 次へ → ブログトップ → サイトトップ → 相続・事業承継ブログトップ → 略歴
Comentarios