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執筆者の写真azaminoone

「私の履歴書」15 超激務Ⅴ(融資管理回収)

更新日:2022年6月8日

銀行員時代⑧


米国西部地域の地場(非日系)取引先向け融資担当者として、これといった業績も残せぬまま、支店のもう一方の営業部門である、日系取引課に配置換えとなりました。銀行員として、初めて営業らしい営業担当者となった訳です。担当は、銀行の本邦本支店の大口コア取引先が出資する現地法人以外の、中小の現地日系企業(俗に「地場日系」などと称します)と、不動産融資(日系・非日系)でした。


日系担当先は、主にサンディエゴ、つまり米国西海岸のメキシコ国境に面する都市(米海軍の軍港がある、美しい街です)周辺に立地しており、製造業の場合は、国境のメキシコ側のティファナという村に工場を有し、操業していました。当時のティファナは、一種の「関税特区」で、日本の名だたる家電メーカーの巨大なテレビ工場や白物家電工場がずらりと居並んでおり、その周辺事業、例えば箱詰めに使う発泡スチロールを作る工場などもあって、これらへの新規融資が私の担当でした。ロスアンゼルスのダウンタウンから、カンパニーカーを運転して3時間半ほどかかり、当時の商品である、変動金利の固定化(金利スワップ)スキームなどを提案していました。不慣れな営業で、取引をとるのは得意ではありませんでした。


一方の不動産融資担当というのは、一つには、当時著名だった日系不動産グループの現地法人へのもので、バブル時代に取得したアメリカの多くのオフィスビル等の取得資金融資の、主に回収(返済)交渉でした。東京にある同社グループ本社の取引担当部署(銀行内)と連携しつつ、 不動産ポートフォリオ(融資対象資産)の部分売却と、その代金による融資の部分返済、また担保の付替えなどを延々と続けるものです。


他に、現地の非日系不動産グループへの融資の、やはり回収(返済)交渉がありました。現地では知らぬ者のない不動産事業の大立者(会社オーナー)に、協調融資(複数行による融資)のもう一方の他行担当者と共に、会いに行きました。当時、既に80歳前後かと思いますが、米国不動産不況の本当のどん底にありながら、10年刻みで必ず市況は回復する、と断言する、正にデモーニッシュなオーナー経営者でした。


こんな中で、例によって真夜中、日付が変わろうとする頃合いに英文契約書案と格闘していると、まるで崖っぷちに後ろ向きで立っているような気分になったものです。かかとが少し出ていて、指先で胸をツンと押されれば、奈落の底。かといって、こんな詳細部分を相談できる相手は、東京にはいません。そこで、当地の不動産担保融資に造詣の深いAさんという、NY州法とカリフォルニア州法の弁護士資格も併せもつ日本人弁護士さんと、毎晩のようにやり取りしながら、回収(返済)交渉の算段を続けました。超人的なインテリジェンスと体力の持ち主で、毎夜、日付が変わった頃合いに契約変更の方向性を(とにかく忙しい方なので)Aさんのデスクの留守録に残して帰ろうとすると、間もなく(夜中の2時頃)コールバックがあり、これから同法律事務所の東京オフィスの秘書に英文契約書文案をワードに打たせ、明朝(つまり数時間後)までにイーメールで返信しておきます、と言われ、仰天したものです。そろそろ、インターネットとイーメールがビジネスの常識として定着し、業務効率化が飛躍的に進んでいた時期でした。それにしてもAさん、いつ寝ていたのでしょう。



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